一 出発点

哲学が何であるかは、誰もすでに何等か知っている。もし全く知らないならば、ひとは哲学を求めることもしないであろう。或る意味においてすべての人間は哲学者である。言い換えると、哲学は現実の中から生れる。そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。

哲学が現実から出立するということは、何か現実というものを彼方に置いて、それに就ついて研究するということではない。現実は我々に対してあるというよりも、その中に我々があるのである。我々はそこに生れ、そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる、そこが現実である。我々に対してあるものは哲学の言葉で対象と呼ばれている。現実は対象であるよりもむしろ我々がそこに立っている足場であり、基底である。或いは一層正確にいうと、現実が対象としてでなく基底として問題になってくるというのが哲学に固有なことである。科学は現実を対象的に考察する。しかるに現実が足下から揺ぎ出すのを覚えるとき、基底の危機というものから哲学は生れてくる。哲学は現実に就ついて考えるのでなく、現実の中から考えるのである。現実は我々がそこにおいてある場所であり、我々自身、現実の中のひとつの現実にほかならぬ。対象として考える場合、現実は哲学の唯一の出発点であり得ないにしても、場所として考える場合、現実以外に哲学の出発点はないのである。

哲学はしばしば無前提の学と称せられている。しかるにそれが現実から出立するというとき、現実というものが前提されるといわれるであろう。けれど哲学にしても空無から始めることはできぬ。いわゆる無前提とは前提がないということでなく、最も必然的な前提に立つということでなければならぬ。現実は任意の前提でなく、いかにしても逃れ得ない前提である。現実から遊離した哲学も、その遊離することにおいてなお現実に制約されているのである。現実に出発点を取るということは、哲学の一つの立場をあらかじめ取るということではない。それを立場というならば、それは哲学における唯一の立場である。対象としてでなく、基底として、場所として、現実はかような意味をもっている。しかしながら、かように必然的なものが単に必然的なものに止まる限り哲学はないであろう。哲学は基底の危機から生れるのであって、そのとき必然的なものの必然性は揺り動かされ、ひとつの可能性に過ぎなくなってくる。最も必然的と思われているものが単に可能的なものではないかと疑われてくるところに、必然性の可能性へのこの転換のうちに、哲学的意識は現われるのである。かようにして自己の前提であるものをみずから意識し反省してゆくことが、哲学の無前提性といわれるものの意味でなければならぬ。ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。その際、必然性は可能性の否定的媒介を通じて真の現実性に達するのであって、哲学的に自覚された現実性は必然性と可能性との統一である。

哲学的探求の初めにおいて現実はもとより全く知られていないのではない。全く知られていないものは問題になることもできぬ、問題になるというには既に何等か知られているのでなければならぬ。しかしそこにはまた何か知られていないものがあるのでなければならぬ、全く知られているものには問題はない筈である。かようにして知っていると共に知っていないところから探求は始まるのである。哲学者は全知者と無知者との中間者である、とプラトンはいった。全く知らない者は哲学しないであろう、全く知っている者も哲学しないであろう、哲学は無知と全知との中間であり、無知から知への運動である。不完全性から完全性へのこの運動は愛と呼ばれた。哲学は、それにあたるギリシア語の「フィロソフィア」という言葉が意味するように、知識の愛である。それは知識の所有であるよりも所有への行程であり、従って哲学することを措いて哲學はないのである。

哲学の以前、我々は常識において、また科学において、現実を知っている。しかしながら、哲学は常識の単なる延長でもなければ、科学の単なる拡張でもない。哲学的探求は知っていると共に知っていないところから始まるということは、もと単に、知ってい知っていないのは事物の部分であって、まだ知っていない部分について知り、その知識をすでに知っている部分の知識に附け加えることで問題がなくなるというような関係にあるのでなく、持っている知識が矛盾に陥ることによって否定され、全く知っていないといわれるような関係にあるのである。現実の中で、常識が常識としては行詰り、科学も科学としては行詰るところから哲学は始まる。哲学は常識とも科学とも立場を異にし、それらが一旦否定に会うのでなければ哲学は出てこない。ソクラテスの活動が模範的に示している如く、そこには知の無知への転換がなければならぬ。無知と知との中間といわれる哲学の道は直線的でなくて否定の断絶に媒介されたものであり、知の無知への転換を経た知への道である。それ故に哲学は懐疑から発足するのがつねである。しかしながら哲学は常識や科学を否定するに止まるのではない、それらとただ単に対立する限り哲学は抽象的である。それが常識や科学を否定することは却ってそれらに媒介されることであり、それらを新たに自己のうちに生かすことによって、哲学は真に現実的になり得るのである。

二 人間と環境

ところで現実というとき、先ず考えられるのは我々の生活である。この現実を顧みて知られることは、我々が世界の中で生活しているということである。我々がそこにいて、そこで働くこの世界は、環境と呼ばれている。環境というと普通に先ず自然が考えられるが、自然のみでなく社会もまた我々の環境である。むしろ我々がそこにある世界は何よりも世の中或いは世間である。「世界」という言葉はもと自然的対象界でなく人間の世界を意味した。環境は我々に近いものであるとすれば、人間にとって人間よりも近いものはなく、環境は我々に遠いものであるとすれば、人間にとって人間よりも遠いものはない。

人間と環境とは、人間は環境から働きかけられ逆に人間が環境に働きかけるという関係に立っている。我々は我々の住む土地、そこに分布された動植物、太陽、水、空気等から絶えず影響される。人間は環境から作られるのである。他方我々はその土地を耕し、その植物を栽培し、動物を飼育し、或いは河に堤防を築き、山にトンネルを通ずる。人間が環境を作るのである。即ち人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている。この関係は人間と自然との間にばかりでなく、人間と社会との間にも同様に存在している。社会は我々に働きかけて我々を変化すると共に我々は社会に働きかけて社会を変化する。人間は社会から作られ逆に人間が社会を作るのである。

人間は環境を形成することによって自己を形成してゆく、――これが我々の生活の根本的な形式である。我々の行為はすべて形成作用の意味をもっている。形成するとは物を作ることであり、物を作るとは物に形を与えること、その形を変えて新しい形のものにすることである。人間のあらゆる行為が形成的であるというのみでない、人間は環境から作られるという場合、自然の作用も、社会の作用も、形成的であるといわねばならぬ。もとより我々は単に環境から作用されるのではない。逆に我々は環境に作用するのである。環境が我々に働きかけるのは我々が環境に働きかけるのに依るということもできる。自己はどこまでも自己から自己を形成してゆくのであって、そうでなければ自己はない。しかし自己は環境において形成されるのである。生命とは自己の周囲との関係を育てあげる力である。一方どこまでも環境から限定されながら同時に他方どこまでも自己が自己を限定するという即ち自律的であるというところに生命はある。「生あるものは外的影響の極めて多様な条件に自己を適応させ、しかも一定の獲得された決定的な独立性を失わないという天賦を有する」、とゲーテも書いている。我々は環境から作用され逆に環境に作用する、環境に働きかけることは同時に自己に働きかけることであり、環境を形成してゆくことによって自己は形成される。環境の形成を離れて自己の形成を考えることはできぬ。

人間は現実的存在であるというが、現実的なものとはそこにあるものである。そこにあるとは世界においてあるということであり、世界はさしあたり環境を意味している。しかし次に現実的なものとは働くものでなければならぬ。働かないものは現実性にあるとはいわれず、ただ可能性にあるといわれるのである。働くということは関係に立つということである。現実的なものはすぐれた意味においてあるといわれるのであるが、「ある」とは、ロッツェがいったように、「関係に立つ」ということであり、関係に立つとは働くということである。あるとは知覚されることであると考えられるとすれば、知覚されるということもまたかような関係の一つに過ぎない。しかるに物と物とが現実的に関係するためには一つの場所になければならぬ。人間は世界の中にいて、そこにある他の無数の多くのものと関係に立っている。

人間と環境の関係は普通に主観と客観の関係と呼ばれ、私は主観であって、環境は客観である。主観とは作用するもの、客観とはこれに対してあるもの即ち対象を意味する。主観と客観は、主観なくして客観なく、客観なくして主観なく、相互に予想し合い、相関的であるといわれている。しかしながら両者の関係をただ相関的であるというのは不十分である。私自身は私にとってどこまでも環境とは考えられぬもの、反対に私にとって環境であるものはどこまでも私自身とは考えられぬものである。客観からは主観は出てこないし、主観からは客観は出てこない、両者はどこまでも対立的である。人間と環境の関係を主観と客観の関係と看做みなすことにはなお種々の注意を要するのである。いま取敢えず次のことを記しておかねばならぬ。

従来の主観・客観の概念は主として知識の立場において形作られている。主観とは見るもの、考えるもの、客観とは見られたもの、考えられたものを意味するのが通例である。そこで主観といえば意識と解される、知るものは意識の作用であるといい得るからである。しかるに人間と環境との関係はもと行為の関係であり、行為の立場においては、働くものは単なる意識でなく身体を具えた人間である。行為は意識の内部におけることでなく、行為するとは却って意識から脱け出ることであり、我々が意識から脱け出るのは身体に依ってである。行為するとは身体をもって自己の外にある存在に働きかけることであるが、自己の外にあるというのは単に自己の意識の外にあるということでなく、自己の身体の外にあるということでなければならぬ。行為については、ひとは行為の主観とはいわず主体といっている。かように何よりも行為の立場において形作られる主体の概念は、従来の主観の概念とは区別さるべき理由があるであろう。我々は主体として単なる意識でなく存在である。しかるに従来の主観・客観の概念は意識と存在との対立を意味し、存在はすべて客観の側に追いやられ、主観はあらゆる存在を剥奪されている。もちろん、主体は存在であるといっても、その存在は客観的に或いは対象的に捉えることのできぬ主観的なものである。その存在は、客観化された場合、もはや本来の存在でない、それは反省的知識のために主体が自己を譲渡して対象としたものに過ぎず、主体そのものはどこまでも内面的な存在である。しかるにいわゆる主観には内面的存在性が欠けている、その存在は自己の譲渡によって自己が自己の前に投射した客観に専ら相対的であり、従って真の主観性を失っている。いわゆる主観は真の主観性ではない。従来の主観・客観の概念においては、主観は自我といわれ、これに対して客観は非我と呼ばれたが、非我は他我即ち他の人間でなくて物の世界のことであった。そこでは主として自然的対象界が問題であり、人間の世界、歴史的・社会的現実は問題でなかった。我に対するのは汝でなく、単なる物に過ぎなかった。しかるに単なる物に対する自己は真の自己であることができぬ、我は汝に対して初めて我である。更に従来の主観・客観の概念においては、自己は主観として存在でなく、一切の存在は客観と見られる故に、自己は世界の中に入っていないことになる、世界は自己に対してあるもの即ち対象界と考えられ、自己はどこか世界の外にあるものの如く考えられている。かような主観は一個の抽象物であって現実の人間ではない。現実の人間はつねに世界の中にいるのである。我は世界の中にいて他に対しているのであるが、我に対するものは何よりも汝である。我は汝に対して我であり、汝なしには我は考えられない、そして汝は単なる客観でなく主体である。即ち主体は主体に対している。主観は客観に対して主観であるに反して、主体は根源的には客観に対してよりも他の主体に対して主体である。そこに主観の概念とは区別される主体の概念の本来の意味がある。いわゆる主観は、それが個人的自己と考えられようと超個人的自己と考えられようと、どこか世界の外にあって孤立的であるに反して、主体は主体に対して主体であり、従って元来社会的である。

もとより主体は単に主観的なものではない。我々は身体を有するものとしてすでに単に主観的なものであり得ないであろう。身体は自然的なもの、客観的なものである。しかしまた身体は物体とは異る主体的意味をもっている。物が自己の外にあるというのは身体の外にあることである、さもないと行為というものは考えられない。主体は単に主観的なものでなく、むしろ主観的・客観的なものである。それは客観に対する主観の如きものでなく、客観に媒介されたものとして主体である、客観を我が物とすることによって真に独立になったものが主体である。人間も世界における一個の物にほかならず、その意味において我々の最も主観的な作用も客観的なものということができる。人間の存在のかような客観性を先ず確認することが必要である。真に客観的なものとは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。  ところで環境は私に対してあるものとして普通に客観と看做みなされている。けれど翻って考えてみると、環境は私に対してあるというよりも私が環境の中にあるのである。環境は対象でなく、私がそこにおいてある場所である。環境のかような性質はその世界性格と称することができる。尤もっとも、環境は一面閉じたものの性質をもっている、私がそこに住む環境は、この町、この国、更にいわゆる世界にまで拡げて考えても、つねに閉じたものである。環境が主体を中心とする円の如く表象されるのもそのためであって、円はその周辺をどれほど拡げても開いたものとはならぬ。しかるに閉じたものは世界とは考えられない、世界の根本性格は開いたものということである。閉じたものと開いたものとの差異は量的でなくて性質的である。閉じたものが一点を中心とする円の如く表象されるとすれば、開いたものは到る処中心を有する円の如く表象されるであろう。環境は単に閉じたものでなく、その世界性格において開いたものの性質をもっている。即ちそれは閉じたものであると同時に開いたものである。環境は、私に対してあるのでなく私がその中にあるものとして、対象或いは客観とは考えられない。主観的なところを有する私の存在をうちに包むものは単に客観的なものであることができぬ。我々がそこにいる社会は単なる客観でなく、それ自身の意味における主体である。社会も身体を有し、風土的自然は社会の身体と考えられる。私に対してあるといわれるのは環境でなく、私と一つの環境においてある他のものである。それは私と同じく個別的なものであり、そして環境は一般的なものである。個物は個物に対し、一つの環境においてある。かような個物はすべて我に対する汝の性格を担っている。環境の意味での自然においてある個々の物も単なる客観でなく、むしろ汝の性格において我に対している。汝は我に対して独立なものである、客観とか客体とかといわれるのも、それが主体から全く独立なものであることを意味している。行為は独立なものと独立なものとの間に成り立つ、しかもかように関係するにはそれらは一つの場所においてあるのでなければならぬ。我々がその中にある一つの個別的社会、例えば民族とか国家とかも、主体として他の主体即ち他の個別的社会に対し、それらは一つの環境、いわゆる世界においてある。かような世界も歴史的なものとしてそれぞれの時代に個別的であるとすれば、多くの世界がそれにおいてある世界即ち絶対的環境、もしくは絶対的場所、もしくは絶対的一般者ともいうべき世界が考えられねばならぬ。世界は世界においてある。世界がそれにおいてある世界は絶対に主体的なものであり、一切のものはこの世界から作られ、この世界の表現である。主体的ないし主観的ということを直ちに人間或いは意識と結び付けて考えてはならない。それはすべて形成作用のあるところに認められる関係であって、形成作用は表現作用であり、表現はつねに内と外との、主観的なものと客観的なものとの統一という意味をもっている。一切のものは世界の主観的・客観的自己限定或いは特殊的・一般的自己限定として生じ、世界においてある。世界が世界においてあるという場合、その世界即ち無数に多くのものの総体としての世界と絶対的場所としての世界とは客体と主体というようにどこまでも対立すると共にまたどこまでも一つのものである。相対と抽象的に対立する絶対は真の絶対でなく、真の絶対は却って相対と絶対との統一である。かくて世界は多にして一、一にして多という構造をもっている。人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。作られて作るものというのが人間の根本的規定である。

三 本能と知性

人間は環境に適応することによって生きている。適応とは対立するものの間における均衡の関係を意味している。その適応の最も単純な仕方は本能である。動物は本能に生きるといわれるが、人間も多くの場合本能によって環境に適応しているのである。本能は身体的なものであり、身体の構造と結び付いている。同じ種の昆虫においても、幼虫、蛹、蛾と、身体の形が変るに従って、その本能も変るのがつねである。かように本能は身体の構造或いは形と結び付いているが、身体の構造は、近代の進化論が説く如く、生活する主体の環境に対する適応の結果として作られたものである。生物の形はただ偶然に出来たものでなく、その棲息する環境との関係から限定されたものである。水中に棲む魚は鰭を、空中に棲む鳥は翅をもっている。それらの形はそれらの生物の本能を表現すると共に、生活する環境を表現している。人間の身体の構造も同じように考えることができる。適応といっても単に受動的なものでない、ただ消極的に環境に適応してゆく場合、生命は萎縮してしまうのほかない。人間の環境に対する適応は作業的に、行為的に行われるのであって、身体の諸部分はそのための道具の性質をもっている。それらは器官と呼ばれ、器官とは道具のことである。身体は客観的なものであると共に単なる物体とは異る主体的なものであり、主観的・客観的なものとして道具と考えられるのである。

かようにして身体の構造はすでに技術的な意味をもっている。それはひとつの技術的な形である。生物の形は技術的な形であり、自然も技術的であるということができる。技術の本質は主観的なものと客観的なものとを媒介して統一するところにある。この統一は形において現われる。技術にはつねに道具があるが、道具は主観的・客観的なものとしてそれ自身また技術的に形作られたものである。技術において、客観的なものは主観化されると共に主観的なものは客観化される。人間は環境に働きかけてこれを変化し、客観的なものは人間化或いは主観化され、同時に人間の主観的な欲望ないし目的は環境化或いは客観化されるが、その媒介となるものが技術である。主体が環境から規定されながらそれに解消されることなく主体として自己を維持し得るのは技術によってである。技術的であることによって主体は客観を我が物として真に主体となるのである。主観的なものと客観的なものとの技術的な形における統一は先ず身体の構造において現われる。それは自己の保存とか種の保存とかという主観的な欲求と客観的なもの環境的なものとの統一を示している。本能は環境に対する適応の仕方の一つであり、身体の構造に結び付き、従って本能にしても決して単に盲目的なものでなく、むしろ本能は「自然のイデー」である。

しかしながら本能による適応には限界がある。動物は環境と有機的に融合的に生きるといわれるように、本能的な適応は、それが存在する限り、完全である。本能による適応は直接的である。しかるにそのために、環境に重大な変化が生じた場合、それはこれに対して十分に適応することができぬ。本能は環境を広く、遠く、自由に見ることができない。本能もすでに技術的であるといっても、それは身体の器官に制約され、身体は無限の形をとり得ず、一旦出来上って固定した形は我々の活動に対して桎梏にさえなるのである。また身体の器官は道具と見られ得るにしても、身体は我々の自己であって、この道具は主体から離れた独立なものではない。従って本能による適応は直接的であるが、主体と道具とは一つである故に、主体は道具に束縛され、人間は器官の奴隷となるのである。

本能のかくの如き制限を超えるものは知性である。知性も技術的であり、否、本来技術的であるのは本能でなくて知性である。知性は身体から自由になることができる。知性は自律的である。自律的とは他のものに制約されることなく自己自身の法則に従い、自主的或いは自発的であるという意味である。自律的なものは自由なものである。知性も環境に対する適応に仕えるものであるが、それは先ず自己に固有な手段によって自己の世界を構成する。知性は環境の作用から結果するのでない固有の構造を具えている。知性は生物学的環境の圧力の結果であるよりも遥かに多く新しい環境の存在の条件である。知性は自律的であることによって身体を道具として自由に使い、かくて身体の器官も道具の意味を発揮することができ、身体的欲望についても知性は本能よりも一層よく満足させることができるのである。しかし器官の技術のほかに固有な意味における道具の技術がある。そして技術的知性の特徴は、身体の器官とは区別されるかような道具を作るところにある。人間は「道具を作る動物」である、人間のこの特性は、人間が知性を有するということに基いている。固有な意味における技術は道具を作り、道具を用いて物を作る技術である。器官と道具との区別は、器官が有機的(生命的)なものであるに反して道具は無機的なものであり、器宮が身体と直接に一つのものであるに反して道具は身体の外に作られるものであり、器官がなお主体に属するに反して道具は客観的なものであるというところに認められるであろう。身体の器官もすでに道具と考えられるとすれば、技術的知性の特徴は道具を作る道具を作るという点にある。尤もっとも、道具は純粋に客観的なものでなく、人間の主観的な目的と物の客観的な法則との統一を現わしている。けれどもこの統一は客観的な物の形において実現され、かようにして道具は主体から独立なものである。道具を用いる技術によって我々の環境に対する適応は直接的でなく媒介されたものになる。本能による適応が直接的であるに対して、知性による適応は媒介的である。それは知性が身体に束縛されないで自律的であるところに由来している。知性とは構成されたものによって所与のものを超える力である。技術は与えられたものの上に新しいものを作る、技術は生産的であり、世界を革新しまた豊富にする。人間は技術によって新しい環境を作りつつ自己を新たにするのである。環境を変化することによって環境に適応するという人間の能動性は知性によって発揮される。知性は人間の行為のより高い形式を可能にするのである。

技術は先ず物質的生産の技術或いは経済的技術を意味している。それが我々の生活にとって基礎的に重要なものであることはいうまでもないであろう。けれども技術の概念をそれにのみ限ることは正しくない。技術というと直ちに物質的生産の技術を考えることは、世界というと直ちに自然界を考えることと同様、近代における自然科学的思惟の圧倒的な支配の影響に依るものであって、偏頗な見方といわねばならぬ。人間の技術があるばかりでなく、「自然の技術」がある。自然も形成的なものとして技術的であり、人間の技術は自然の技術を継ぐということができる。人間の技術にしても、物的技術があるばかりでなく、人格的技術がある。ひとが他の人間を形成してゆく教育の如き場合はもとより、自己自身を、自己の身体をも自己の精神をも、形成してゆく場合にも、技術がある。自然に対する技術があるばかりでなく、社会に対する技術がある。社会の組織を作ることや国家の制度を作ることは技術に属し、政治の如きもすぐれた意味において技術である。人間のあらゆる行為が技術的である。そしてそれは人間がつねに環境においてあることを思うと当然のことであって、技術によって主体と環境という対立したものは媒介され統一されるのである。かようにして種々の技術があるとすれば、アリストテレスが考えた如く、それらの技術のアルヒテクトニックを、その目的・手段の関係における階層構造を考えねばならぬであろう。そこには総企画的なものがなければならず、これは全体の形を作るものとして知性の最高の技術に属している。

ところで本能の立場に止まる限り環境は単に閉じたものである。それが開いたものになるのは知性の立場においてであり、知性によって環境の世界性格は顕わになるのである。知性が環境を客観的に認識することができるというのもそのためであり、そしてそれは知性が自律的であることによって可能である。知性の自律性はまた、自己自身が作り出したものに対してさえ自由であり得るところに認められるであろう。言い換えると、知性は技術を手段に化するのである。知性は技術の上に出ることができる、それは技術の中に入りながら技術を超えることができる。人間は技術をもって環境を支配することによって独立になるのであるが、その技術をも手段に化し得るものとして真に独立である。けれども技術を単に手段と見ることは正しくないであろう。いかなる技術も形のある独立なものを作り出すものとして自己目的的である。一つの技術を手段に化するには他の技術が必要である。下位の技術の目的となるような上位の技術があり、総企画的なものがなければならぬ。技術の目的は、主観的なものと客観的なものとを媒介して統一する技術そのもののうちにあるのであって、主体の真の自律性は単なる超越でなく、技術の中に入りながら技術を超えているという内在的超越でなければならぬ。

そして自律的といわれる知性も、それ自身技術的であり、固有の道具をもっている。言語とか概念とか数とかは、そのような知性の道具と見られるであろう。知性の道具は物質的なものでなく、観念的ないし象徴的或いは記号的なものである。論理というものも、アリストテレスの論理学が「機関」(オルガノン)と呼ばれ、ベーコンが近世において「新機関」を工夫したように、技術的である。知性は自己自身に道具を具えており、思惟の諸道具は思惟の諸契機にほかならぬ。知性は構成されたものによって所与のものを超える力であるが、知性の機能に属する一般化の作用もかような性質のものである。思惟の技術は本質的に媒介的である。その一般化の作用によって作られる概念は、特殊をその根拠であるところの普遍に媒介することによって作られるのである。思惟の媒介的な本質は、概念から判断、判断から推理と進むに従って、次第に一層明瞭になってくる。知性の自律性は合理性として現われる、合理的とは思惟によって自律的に展開され得ることである。そして知性はカントの意味においてアルヒテクトニッシュである。カントに依ると、アルヒテクトニックとは「体系の技術」であり、知識は一つの理念のもとに、全体と部分の必然的な関係において、建築的な統一にもたらされることによって科学的となるのである。しかしながら存在と抽象的に対立して考えられる思惟の自律性は真の自律性でなく、客観を我が物とすることによって思惟は真に自律的になることができる。知性が技術的であるということも、本来、客観を主観に、主観を客観に媒介するということでなければならぬ。思惟は自己に対立するもの即ち経験に与えられたもの、客観的実証的なものを自己に媒介することによって真に論理的になるのである。論理の運動は物の本質の運動とならねばならぬ。現実を離れて論理はなく、論理は現実のうちにあるのである。

四 経験

環境について知識を得る日常の仕方は経験である。我々は先ず経験によって知るのであって、経験は知識の重要な源泉である。けれども経験を単に知識の問題と見ることは種々の誤解に導き易く、それによっては経験的知識の本性も完全に理解されないであろう。経験を唯一の基礎とすると称する経験論の哲学が、経験を心理的なもの、主観的なものと考えたのも、それに関聯している。知識の立場においては、経験の主体即ち知るものは心或いは意識であって、経験はそこに生じそこに現われるものと考えられるであろう。しかしながら現実においては、経験は何よりも主体と環境との行為的交渉として現われる。経験するとは自己が世界において物に出会うことであり、世界における一つの出来事である。経験は元来行為的なものである、経験によって知るというのも行為的に知ることである。経験するとは自己が環境から働きかけられることであって、経験において自己は受動的であるといわれるであろう。経験論の哲学が感覚とか印象とかを基礎とするのも、そのためである。かように受動的状態を重んずるのは、対象を自己に対して働かさせようとするものであって、経験論の動機も実証的或いは客観的であろうとするところにある。経験は客観的なものを意味し、自己が実際に出会うもの、客観的に与えられたものが経験である。しかし他方経験はつねに主体に関係付けて理解される、経験は経験するものの経験であり、経験する主体を離れて経験はない。経験論が経験を主観的なものと考えるに至ったのも、それに依るのである。ただ経験論は、この主体を単なる意識と考えることによって経験を心理的なものとしたばかりでなく、更にその意識を単に受動的なものと考えた。しかも実は、単に受動的であっては客観性に達することも不可能であったのである。経験は主体と環境との関係として行為の立場から捉えられねばならぬ。感覚も身体的な行為的自己の尖端として重要性をもっているのであり、感覚にも能動的なところがある。尤もっとも、行為といっても単に能動的であるのではなく、環境の刺戟に対する反応として環境から規定されている。けれども反応することは我々の能動性に属している。即ち経験は受動性であると同時に能動性である。我々の行為はただ或る意味においてのみ環境の刺戟によって惹き起されるに過ぎぬ、なぜなら我々の活動そのものが我々の活動を惹き起す環境を作り出すことを助けるのであるから。刺戟によって生ずる反応は同時に刺戟を変化する。主体は単なる環境に対して反応するのでなく、むしろ環境プラス主体に対して反応するのである。客観的状況といわれるものも実は単に客観的でなく、同時に主観的である。行為もまた単に主観的なものでなく、同時に客観的なものであり、環境の函数にほかならぬ。

我々は経験によって環境に適応してゆく。環境に対する我々の適応は、本能的或いは反射的でない場合、「試みと過ち」の過程を通じて行われる。この試みと過ちの過程が経験というものである。経験するというのは単に受動的な態度でなく、試みては過ち、過っては試みることである。経験という言葉は何か過去のものを意味する如く理解され易く、既に行われたことの登録、先例に対する引き合せが経験の本質であるかの如く信ぜられている。経験論の哲学も経験を「与えられた」もののように考えた。しかし経験は試みることとして未来に関係付けられている。試みるというのは自主的に、予見的に行うことであって、かような経験には知性が、その自発性が予想される。自発的な知性がそこに働くのでなければ、試みるということはない。経験は試みることとして直接的でなく、すでに判断的であり、推論的であるとさえいい得るであろう。もちろん経験は単に思惟的でなく、却ってその本質において実験的である。すべての経験は実験である、ただ経験には科学における実験の如き方法的組織的なところが欠けており、従ってそれは偶然的である。実験が技術的であるように、経験もすでに技術的である。経験において、我々は試みては過つ、過つということはいわば経験の本性に属している。本能はそれ自身に関する限り過つことのないものであるが、経験においては過ちがある。しかもそこに経験の価値があるのであって、過つことによって我々の知識は本能の如く直接的なものでなく反省を経たものになってくる。誤謬の存在によって我々の知識は媒介されたものになるのである。試みと過ちの過程において我々は正しい知識、正しい適応の仕方を発明する。経験は発明的である。それが発明的であるということは、経験が主観的・客観的な過程であることを意味している。試みと過ちとは主体と客体とが相互に否定し合う関係であり、かような対立の統一として経験的知識は成立するのである。

しかし経験は行為に関するものとして、そこに行為の形が形成されてくるであろう。この形は技術的な形である。形は全体性であり、行為の形は行為が主体と環境との間における成全的活動であるところに生ずるのである。環境は主体に作用し逆に主体は環境に作用し、二つの作用が関係することの間における結合として行為は成全的活動であり、この結合は機械的でなく、創造的綜合である。しかも行為が形をもつということは、主体と環境との作用の間におけるこの結合が主体の側において、まさに行為そのものにおいて成全するところから生ずるのである。主体は単なる環境に対して反応するのでなく、却って環境プラス主体に対して、言い換えると主体によって変えられた環境に対して反応するという意味において、その反応は循環反応と称せられる。行為は循環反応として自己創造的な斉合性をもっている。行為の自律性もそこに考えられねばならぬ。行為の形はその自律性の表現であり、もし行為が自律的でないならば、行為は形をもつことができぬ。しかし行為の自律性を環境から離れて単に主体から考えることは抽象的である。形は主観的なものと客観的なものとの統一である。主体と環境とは互に他を新たに作り、両者の関係も新たに作られ、行為の成全作用は創造的である。環境に対する主体の適応は発明的であって、行為の形も無意識的にせよ発明に属している。それは技術的な形として機能的意味をもっている。それは機能を組織したものであり、機能を表現するものである。

しかるに経験において行為の形が作られる場合、そこに習慣が作用するであろう。習慣は均衡の形式であり、主体と環境との間における持続的な適応として生ずる。行為が習慣的になることによって行為の形は作られる。習慣は発動機械の、行為の図式の構成である。我々の行為が習慣的になるのは、主体が身体的なものであって、自然から抽象された精神の如きものでないということに依るのである。習慣は「第二の自然」と呼ばれているが、それは機械的必然的なものではない。習慣も行為的なものであり、習慣を破ることができるものであって習慣を作ることができる。その自然のうちには自由が喰い入っており、しかしまたその自由のうちには自然が流れ込んでいる。経験から習慣が生じてくる。経験は試みと過ちによる適応であり、これは習慣形成の一つの主要な形式である。既にいった如く経験は未来との結合を含むが、それはまた過去との結合を含み、むしろこのために経験といわれるのである。経験は我々の積んでゆくものであり、積まれたものが経験である。そこから習慣が生ずるのである。習慣的になることは行為が自然的になること、惰性的になること、従って受動的になることであるが、同時に行為はその自発性において高まる。我々の行為が習慣的になることが全くないとしたならば、我々の生活はいかに不自由であろう。習慣は受動性であると同時に自発性である。習慣は有機的生命の受動性のうちに浸透してそこに樹てられる自発性の発展である。

ところで経験は働くことであると同時に知ることである。働くことによって我々は知るのである。経験は試みと過ちの過程において或る一般化と或る綜合とを行う。種々の知覚は記号となり、また統一にもたらされる。その際、習慣が作用する。習慣は知性のうちにも入っている。経験論の哲学もヒュームにおいて見られるように習慣に重要な意味を認めたけれども、その習慣論は観念聯合の機械的な説明に拠っている。それは意識の不変的な「要素」を考え、要素の機械的な結合から一切の心理現象を説明しようとした。しかるに習慣においては知覚の変化が認められる。我々が親しんだ環境では、物は、この環境に我々が初めて接した場合とは違って知覚される。行為に必要な知覚は練習の最初と最後とで違っている。習慣的になると無意識になるといわれるのも、厳密に考えると、知覚の変化が生ずることである。習慣の仕事は練習の前の階梯の一層容易で一層迅速な反覆に還元されるものではない、それはより高い統一を形成するのである。習慣において寄せ算と引き算の遊戯、成功した経験の増強と誤謬の消去を見る代りに、そこに再編成、新しい綜合、全体の機能の構成を見なければならぬ。習慣もまた創造的である。それは創造的行為と同じ根のものであり、人間的活動の基本的な構造に基いている。尤もっとも習慣は他方模倣的である、それは自己が自己を模倣するところから生ずる。習慣は創造的であると同時に模倣的である。経験は行為的に知ることであるが、人間と環境との適応が持続し、行為が習慣的になるに従って、知識も同じように習慣的になってくる。これによって知識も組織された形をとり、同時に或る自然的なものとなり、直接的なものとなるのである。

五 常識

経験の右の如き性質から、社会的に考えると、常識というものが出来てくる。常識は社会的経験の集積であって、我々の行為の多くは常識に従って行われている。常識は先ず行為的知識である。常識は実際的といわれるが、実際的とは経験的・行為的ということである。行為は環境における行為として技術的であり、常識は技術的知識であるのがつねである。実際的ということはまた日常的ということを意味し、常識は平生の生活に関わり、日常的ということがその特徴をなしている。常識は日常的・行為的知識である。そして次に常識は社会的な知識である。常識は個人的経験の結果でなく、社会的経験の結果である。個人にとってはそれはむしろ社会から与えられたものとして受取らるべきものである。この場合社会というのは何等か閉じたものの性質をもっているのがつねである。それは或る家族、或る部落、或る国というが如き、ベルグソンのいわゆる閉じた社会であって、人類というが如き開いた社会ではない。ベルグソンに依ると閉じた社会は諸習慣の体系と看做みなされ得るものであるが、常識はかような社会において習慣的に行われる知識であり、常識そのものがまたかような社会の紐帯となっている。常識は閉じた社会に属するものである故に、一つの社会における常識はしばしば他の社会における常識と異っている。常識の通用性はそれぞれの社会に局限されているのがつねである。「ピレネーのこちらでは真理であるものも、あちらでは誤謬である」、とパスカルはいった。常識の通用性は局限されているが、しかしその社会に属する限り誰もそれをもつことを要求されている。第三に常識は何か直接的に自明なものと思われている。それがいかなる道筋を経て出来てきたものであるか、その根拠がいかなるものであるかを反省することなく、或る自明なものとして社会的に認められているのが常識のつねである。即ち常識は実定的なものである。常識のこの性質は、常識と科学的知識とを比較してみればわかる。科学的知識の性質は、それを問に対する答と考えると明瞭になる。問に対する答は、「然り」か「否」である、肯定か否定である。肯定は否定に対する肯定であり、否定は肯定に対する否定である。その肯定は否定によって媒介されたものでなければならぬ。科学的知識はつねに問に生かされ、従って探求を本質とするものである。しかるに常識は問のない然りであり、否定に対立した肯定でなくて単純な肯定である。常識は探求でなく、むしろ或る信仰である。常識は実定的なものであり、或る慣習的なものとして直接的な知識である。そして社会における慣習が法的な強制的な性質をもっているように、常識もその社会に属する者に対して法的な強制的な性質をもっている。それは常識が特に行為的知識であることと関係しており、常識は個人に対する一つの社会的統制力として働く。非常識であることは、無知を意味するのみでなく、社会的に悪とも考えられるのである。更に常識は有機的な知識である。それは決してばらばらなものでなく、それ自身の仕方で組織されたそれ自身の斉合性をもっている。一定の社会において一つの常識は他の常識と衝突することなく、もし衝突するものであれば常識とはいわれない。常識的な行為はその社会の全体との関係において不都合の起らないのが普通である。一つの常識はつねに他の常識と結び付き、これを予想している。常識のかような斉合性は科学の求める論理的斉合性とは性質を異にし、その際その常識の根拠、一つの常識と他の常識との論理的関係は反省されていない。常識の斉合性は慣習のもっている斉合性と同じ性質のものである。それは常識が社会の有機的な関係と結び付き、それに相応する有機的な知識であることに基いている。社会の有機的な関係というのは、社会のうちに均衡が保たれている状態であって、この場合個人と社会との間には適応が持続的に存在している。その均衡から習慣が生れ、それに従って常識が作られる。社会のうちに均衡が存在する限り常識は通用する、また社会は現存する均衡を維持するために人々が常識的であることを強制するのである。

常識の右の如き性質は逆に何処から常識が破られるに至るかを示しているであろう。常識は先ず日常的な知識であった。そこで常識は非日常的なものの経験によって動揺させられる。哲学が驚異に始まるといわれるのも、そのためである。ひとり哲学のみでなく、すべての精神的文化は、非日常的なものの経験或いは日常的なものの非日常的な仕方における経験から生れるのである。日常的な知識は習慣的な、その意味において自然的になった知識である。その常識が破られるところから特に精神的といわれる文化が出てくる。非日常的なものの経験或いは日常的なものの非日常的な仕方における経験は、経験の深化と呼び得るものである。第二に常識は閉じた社会と結び付いた知識であった。そこでまた常識は経験の拡大によって、言い換えると、自己が有機的に結び付けられている環境以外の新しい環境の経験によって破られる。自己の経験する世界の拡大するに従って常識は動揺させられる。或る社会において常識として行われることも他の社会においては常識として通用せず、一つの社会の常識と他の社会の常識とが矛盾するのを知るとき、自己のもっている常識に対して疑惑が生ずるようになる。第三に常識は有機的な知識として社会における均衡の状態に相応するものであった。その均衡が破られるとき、常識もまた動揺させられる。社会が有機的時期から危機的時期に入るとき、常識では処理し得ないようなことが次々に起って来る。有機的時期とは社会において均衡の支配的な時期であり、危機的時期とは反対に矛盾の支配的な時期である。後の場合、個人は社会の習慣的な有機的な関係から乖離し、経験の個性化が行われ、それと共に批判的精神が現われてくるのである。しかるにかような危機は、一定の歴史的時期において集中的に大量的に現われるのみでなく、あらゆる場合に存在している。習慣は絶えず破られるであろう。しかし旧い習慣が破られるにしても、新しい習慣が直ちに作られる。人間は習慣なしにやってゆくことができぬ。習慣が必要であるように、常識も欠くことのできぬ重要性をもっている。

ところで有機的と危機的とは、社会における均衡と矛盾との関係を意味し、社会がもと対立するものの統一であることを示している。常識は閉じた社会のものであると私は述べたが、いかなる社会も単に閉じたものでなく、同時に開いたものである。ベルグソンは、閉じたものと開いたものとはどこまでも性質的に異るものであって、閉じたものをいかに拡げても開いたものにはならぬといっているが、社会は元来このように対立するものの統一である。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。我々は民族的であると同時に人類的である。かようにして、常識というものにも二つのものが区別されるであろう。それは一方、すでにいった如く、或る閉じた社会に属する人間に共通な知識を意味する。この場合、一つの社会の常識と他の社会の常識とは違い、それぞれの社会にそれぞれの常識がある。しかし他方、あらゆる人間に共通な、人類的な常識というものが考えられる。それは前の意味における常識と区別して特に「良識」と称することができる。例えば、「全体は部分よりも大きい」というのは常識である。それは「自然的光」によってすべての人間に知られるものであって、直接的な明証をもっている。それは知性の自然的な感覚に属している。我々の生活のあらゆる方面においてこの種の常識がある。この場合、常識の光と科学のそれとは根本において同じであるが、常識としてはそれが直接的であって反省されていないという差異がある。かようにして一般に常識といわれるものには固有の意味における常識と良識とが含まれ、両者はしばしば対立して現われる。余りに常識的であることは良識に反し、また余りに良識的であることは常識に反する。そこに既にいった二つの社会に同時に属するという人間の根本的性質が認められる。現実の社会は閉じたものであると同時に開いたものであり、開いたものであると同時に閉じたものである、その理解が我々の真の常識、また真の良識でなければならぬ。

六 科学

常識はそれ自身の効用をもっている。常識なしには社会生活は不可能である。常識に対して批判的精神が現われるが、それと共に人間は不幸になり、再び常識が作られ、これによって人間は生活するようになる。けれども常識の長所は同時にその制限である。そこに科学が常識を超えるものとして要求されるのである。

先ず常識が実定的であるに対して科学は批判的である。実定的な常識が固定的な傾向をもっているに反して、批判的な科学は進取的な傾向をもっている。しかし科学が批判的であるということは更に積極的な意味において理解されねばならぬ。常識はその理由を問うことなく、自明のものとして通用する、それは単なる断言であって探求ではない。常識に頼ることは安定を求めることである。それには懐疑がないが、科学には絶えず新たな懐疑がある。懐疑があって進歩があるのである。探求というのは問を徹底することであり、特に理由を問うことである。単に「斯くある」ということを知るのみでなく、「何故に斯くあるか」ということを知るところに真の知識がある。物を批判的に知るというのはその理由を知ることでなければならぬ。科学は理由或いは原因の知識である。

次に常識が閉じた社会においてあるに対して科学は開いた社会においてある。科学はその本性上人類的普遍的である。科学は時と処を超えて通用する即ち普遍妥当的といわれる知識を求める。そしてそれは個人の自由な精神の活動に俟つのである。科学は、歴史の示すように、民族のうちにおいて個人が自己の自立性を自覚し、独立な人格が現われたところで生れた。それは批判的精神の出現を意味している。個人の自由はさしあたり主観的な肆意しいとして現われるであろう。科学はもちろん個人の肆意しいに基くのでなく、客観的であることを求めている。客観的とは普遍妥当的ということである。そこに個人の主観的な自由は否定されて、自己のうちにおける普遍的なもの、超個人的なもの、理性と呼ばれるものの自覚がなければならぬ。理性の自覚に基いて人間は真に自由になる。単に個人的な立場はもとより、単に民族的な立場に止まる限り、客観的知識に達することはできぬ。もちろん現実の人間は単に人類的でなく、民族的である。しかしその立場が個人の自覚に即して一旦否定されるのでなければ科学的になることはできぬ。人類的立場が直接的であると考えるのは正しくない、それは否定を経て現われてくるのである。常識がなお特殊的な知識であるに反し、科学は一般的なものについての知識、法則の知識である。

第三に常識は行為的或いは実践的立場における知識であった。しかるに科学は理論的、従って観想的であることを特徴としている。科学ももと実践的要求から生れたものであるにしても、一旦これを否定して飽くまでも理論的になるところに科学は成立する。そこには生活における有用性を離れて、知識のために知識を求め、真理のために真理を究める純粋な理論的態度がなければならぬ。ただ実用の見地或いは政策的立場に立つ限り、科学の求める客観的知識に達し難い。科学は自由な研究を必要とするのであって、常識において直接に結び付いている行為の立場は、科学においては一旦否定的に分離されねばならぬ。科学は何よりも理論的知識、即ち論理的に組織された一般的な知識である。

このように科学と常識とは異っている。もとより常識は科学化されねばならないし、また科学は常識化されねばならない。かくておよそ常識が科学的になるところに文化の進歩がある。けれども常識がいかに科学的になるにしても、常識と科学との間には性質上の差異がある。なぜなら両者の差異は単に知識の内容に関するのでなく、却って知識の在り方に関するのである。同じ内容の知識でも常識と科学とでは在り方が違っている。常識には単に「前科学的」といい得ぬ独自の性質と機能とがある。それをただ科学の前段階、低い程度の科学とのみ見ることは、いわゆる実証哲学もしくは科学主義の抽象的な見方に属している。科学は科学としてよりむしろ技術を通じて常識化されるといわれるであろう。科学は技術化されて日常生活のうちに入るに従って常識のうちに入ってゆく。電燈や電車が作られて電気は常識となり、電気について知らないのは非常識とされるようになる。常識はもと行為の立場における知識であり、科学も技術において現実に行為の立場に移されるからである。常識と科学とが在り方を異にするということは、科学の常識化が不可能であるとか無意味であるとかということではない。科学が常識化されることは、常識の進歩のためにも科学の発達のためにも大切であるが、ただそれには特殊な方法が必要である。科学が常識と異るからといって科学を尊重しないのは非常識であり、他方常識を科学によって残りなく置き換え得ると考えるのも非科学的である。

科学はしばしば抽象的であるといって非難されている。それは哲学に対してのみでなく、常識に比してすでに抽象的であるといわれるであろう。しかしながら抽象的なものの重要な意味を理解することが肝要である。抽象的なものに対する情熱なしにはおよそ文化の発達はない。直接に具体的なものは真に具体的でなく、却ってそれ自身抽象的である。真に具体的なものは抽象的なものに媒介されたものでなければならぬ。常識も科学に媒介されて具体的になることができる。科学が普遍的な立場に立って法則を求めるということは、それによって却って真に個人にも民族にも仕えることになるのである。また科学が一旦行為の立場を否定して純粋に理論的になるということは、それによって却って真に行為と結び付くことになるのである。個人にしても民族にしてもそれぞれ個別的なものであるが、単に特殊的なものでなく、同時に一般的なものである。個別性は特殊性と一般性との統一である。一般的な知識は個別的なものの認識にとって必要であるばかりでなく、つねに個別的な条件のもとに個別的な主体によって行われる行為にとっても必要である。科学が明かにする客観的真理に従うことによって、我々の行為は有意味にまた有効に行われることができる。科学は技術の基礎であり、科学の発達が技術の発達を可能にする。単に応用のみを目的とする場合、科学の発達はなく、従って技術の発達も不可能であろう。

しかしながら、科学が一旦行為の立場を否定するからといって、科学と行為とを全く分離して考えるという誤謬に陥ってはならぬ。科学も元来人間の実践的或いは技術的要求から生れたものである。科学の根柢には自然に対する支配の意志があるといわれている。しかるに「自然は、それに服従するのでなければ征服されない」。科学は自然を支配するために自然についての客観的知識を求めるのであって、それが自己を行為の立場から分離するのも、主観的なものの混入を避けてひたすら客観的な知識に達するためである。しかしながら他方科学は、その客観的知識に達するために、却ってむしろそれ自身の仕方において行為的であることを必要とするのである。言い換えると、科学もそれ自身技術的で操作的である。技術にとって科学が基礎であるように、科学にとって技術は基礎であり、技術の発達が科学の発達を可能にした。望遠鏡や顕微鏡の発明なしには近代科学の発達は考えられないであろう。科学ももと環境においてある人間の生活の中から生れたものである、それは構成することによって適応する知性の産物である。それはすでに技術的な我々の経験の発展にほかならない。常識は経験のそれ自身の仕方における組織であったが、科学も同じく経験の他の仕方における組織である。常識においては経験は自然的に、無意識的に組織されるに反して、科学においては経験は意識的に、方法的に組織される。方法的に規制された経験が実験と呼ばれるものである。実験が科学の重要な方法であるということは、科学もその根柢において技術的であることを示している。科学は思惟の技術を必要とするのみでなく、更にすぐれた意味において技術的である。実験は行為的に知ることであり、その主体は操作的主体として行為的である、単に見るものでなく、働くことによって見るものである。知識の主体にしても、いわゆる主観の如きものでなく、現実の人間の存在である。知るということも、存在と存在との関係である。単なる意識に対してでなく、存在に対して初めて、存在は、その秘密を明かにするのである。経験や常識においては知識と行為が直接的に結び付いているに反して、科学の立場においてはそれが一旦引き離され、他方同時に自覚的に、方法的に結び付けられるのである。

科学が経験的ないし実験的であるということは、実証的であることを意味している。科学は実証的でなければならず、実証性は科学の欠くことのできぬ要素である。しかるに科学が実証的でなければならぬということは、現実のうちに我々が純粋に合理的に演繹することのできぬものが存在するということを前提している。合理的に思惟されるものは一般的なものである。しかるに現実のうちには特殊的なもの、非合理的なものが存在している。そこに非合理的なものが存在するところから、科学は実証的であることを要求されるのである。けれども現実が全く非合理的であるとすれば、実験することも無意味でなければならぬ。実験は現実が合理的であるということを予想し、その合理性の発見を目的としている。しかし科学の求めるものが合理的なもの、一般的なもの、法則的なものであるからといって、それが個々のもの、特殊的なものを全く無視するかのように考えることは正しくない。科学も実は個物の独立性を認めることによって成立するのである。唯一つの例外があっても法則は否定され改変されねばならぬということは、個物の力を示している。かように個物の独立性を認めるところに、近代科学の特色とされる実証性がある。それ以前の合理主義の哲学即ち一切のものが純粋に合理的に演繹され得るとする思想に対して、近代科学が経験を重んずるのもそのためである。もとより現実のうちに合理的な統一が存しないならば、実証的であるということも無駄である。かようにして現実が合理的であると同時に非合理的であり、特殊的であると同時に一般的であるというところに、科学的研究は成立する。それは科学が合理性と実証性、或いは論理性と経験性から成るということを意味している。科学性は合理性と実証性という相反するものの統一である。

きに述べたように、経験は単に受動的なものでなく、受動的であると同時に能動的であった。経験の発展として、科学における実証性と合理性は、その受動性と能動性に相応している。経験は試みることとしてそこに既に自律的な知性が参加している。経験における試みが手当り次第の偶然的なものであるに反して、実験における試みは計画的であり、あらかじめ一定の思想、一定のイデーをもって臨むのである。そのことは合理性に対する要求を示している。イデーなしには実験することができぬ。一定の思想をもって現象に問いかけ、現象をしてこの問に答えさせることが実験である。そして与えられる答について論理的に思考し、これによって現象を合理的に把握してゆく。その場合、答は必ずしも最初の思想と一致しないで、むしろこれを否定することもあろう。そのときはそれに応じて我々の思想を変え、新しい思想をもって更に現象に問いかける。かようにして我々と現象との間にいわば問答が行われる。問はあらかじめ論理的に考えられた思想をもって臨むことである故に、合理性の側を現わし、これに対して答はいつでもその思想を否定し得るものとして実証性の側を現わすとすれば、合理性と実証性とは対立し、その間に対話が行われる。そのとき合理性と実証性とは弁証法的関係にあるといわれるのである。弁証法という語はもと対話を意味するギリシア語の「ディアレゲスタイ」に由来している。対話においては互に他を否定し得る独立な者が対立し、問答を通じて一致した思想に達すると考えられるが、そのように弁証法は対立するものの一致を意味している。科学性は合理性と実証性との弁証法的統一である。その合理性は実証性を離れてなく、その実証性は合理性を離れてない。科学的精神は合理的精神であると同時に実証的精神である。合理性と実証性とは対立するものである故に、科学的研究は一つの過程として運動するのである。新たに発見された事実を説明する法則を求めるために、或いは特殊的法則を包括する一般的法則を求めるために、研究が行われる。特殊的なものは科学を進歩させる力となっている。特殊的なものと一般的なものとの対立によって科学は発達する、或いは、非合理的なものを否定的媒介とすることによって科学はその合理性において発展するのである。かように科学が弁証法的構造をもっているということは、現実の世界が弁証法的なものであるということに相応している。合理的であることは演繹的であることであり、実証的であることは帰納的であることであると考えられ、科学は演繹的であると共に帰納的であり、帰納的であると共に演繹的である。演繹は一から多へであり、帰納は多から一へである。現実の世界は多にして一、一にして多であり、一即多、多即一という弁証法的なものであるところに、科学の弁証法的構造の根柢があるといわねばならぬ。

ところで科学が行為の立場に立つことは、客観的な知識に達するために必要なことであった。単に見るのでなく、働くことによって、我々は真に客観的に見ることができるのである。しかし科学は直接に物を作るのでなく、物を作るのは技術である。技術的に作られたものはすべて形をもっている。技術においては、先ず客観的な法則の知識、次に主観的な目的があり、両者の統一が求められるが、この統一は物を変化して新しい形を作ることにおいて実現される。科学の理念が法則であるに対して、技術の理念は形である。形は主観的・客観的なものであり、また抽象的一般的なものでなく、一般的なものと特殊的なものとの統一として具体的なものである。科学的精神が用心深く、試験的で、自由を尚び、つねに批判的で、進取的であるに反し、技術的精神には何か固定的で保守的なところがある。技術は習慣的になり、習慣的になることによってその意味を発揮する。言い換えると、技術は制度的になるという性質をそれ自身においてもっている。技術の存在の仕方には常識の存在の仕方と類似するところがあるであろう。科学は技術化されるに応じて常識のうちに入ってゆく。科学において自然と対立した人間精神は、形のある独立なものを作る技術を通じて自然に、歴史的自然に、還るともいわれるであろう。人間の技術は自然の技術を継続する。科学と技術とは、科学も行為的であり技術も知識的であるにしても、なお理論と実践として対立している。しかもすでに論じたように、両者は抽象的に分離され得るものでなく、却って一つに結び付いている。理論の発達によって実践は発達し、実践の発達によって理論は発達する。そこに対立するものの統一、理論と実践との弁証法的統一が存在する。そしてそれは、科学と技術においてのみでなく、すべての文化と行為において見られる関係である。

七 哲学

科学と哲学との区別は、普通に次の如く理解されている。先ず科学は原因の知識であった。哲学も科学性をもたねばならぬ以上、原因或いは理由の知識でなければならぬ。ところで科学は物の原因を研究するにしても、自己自身の拠って立つ根拠は反省することがない。それは物の因果関係を研究するか、およそ因果性とは何かということについては反省しないのである。因果性とか空間とか時間とかという如きものは、科学は前提するに止まっている。かようにして科学の前提となっているものを究め、その根拠を明かにするのが哲学である。即ち哲学は科学批判に従事するのである。批判というのはそのものの拠って立つ根拠を明かにし、その基礎を置くことである。しかしながら、科学の根拠を明かにすることはそれ自身科学の仕事に属するといわれるかも知れない。科学者は自己の研究の過程において自己の原理であるものについておのずから反省し始めるであろう。尤もっとも、その場合、科学者はもはや科学者としてでなく哲学者として研究しているのであると考えられる。けれども何故に、科学の根拠について研究することが科学者の仕事に属しないのであろうか。それは科学的研究の発展にほかならないといわれるであろう。かようにして、科学の根拠を明かにすることが哲学の仕事であるとすれば、それには何か科学の科学としての立場においては不可能であるというものがあるのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって肝要なのである。

次に科学は存在を種々の領域に分ってそれぞれの領域について研究する。科学は存在を全体として考察するのでなく、その特殊部門を研究する。物理学は物理現象を取扱い、生物学は生命現象を取扱うというように、科学は分科的であり、専門的である。それが特殊科学とか個別科学とかといわれるのもそのためである。しかるに哲学は全体の学である。それは存在を存在として全体的に考察するのである。しかしながら、科学もつねに全体を目差しているといわれるかも知れない。科学者も世界を包括的に統一的に説明しようとしている、彼等も世界についての全体的な観念、即ち世界像というものを与えようとしている。物理学者は物理的世界像を、生物学者は生物学的世界像を形作ろうとしている。生命現象は物理的に説明されず、更に心理現象は生物学的に説明されないとしても、それら物理的、生物学的、心理的現象を一定の関係において統一的に説明し得る科学的世界像を求むべく努力されている。従って哲学が全体の学であるということは、ヴントなどの考えたように、単に諸科学の綜合という意味であることができぬ。諸科学の綜合はむしろ科学自身の理念に属している。それ故に哲学が全体の学であるとすれば、存在の全体というものには科学の科学としての立場においては遂に捉えられないものがあることを意味するのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって大切なのである。

第三に科学は価値の問題について中立的である。それはただ記述し或いは説明することに努め、価値判断はそれの外にある。それは感情的な主観的な評価を排して、物を飽くまでも知的に客観的に把握しようとする。科学は単に記述するのみで説明するものでないというのは、言い過ぎであるにしても、それは決して目的の言葉において説明するものではない。「何故に」ということが、もし物の意味ないし目的を問うことであるとすれば、科学は「何故に」ということに答えるものでなく、単に「いかに」ということを明かにするのである。科学の示す新しい事実、新しい観念、環境支配の新しい可能性をもって何を始めるかは、それを用いる人間の意欲に依存し、そしてこれは彼のもっている価値の尺度に依存する。行為の目的に対して科学は手段或いは道具を提供するに過ぎぬ。しかるに哲学はまさに価値とその秩序に関わっている。哲学の問題は価値の問題であるといわれるのである。しかしながら、科学も価値に無関心であるのではなかろう。それは何よりも真理に深く関心している。真理は価値であり、従って知識もそれ自身のうちに価値の問題を含んでいる。また価値の秩序をいかに考えるかということは、知識に依存するところが多いのである。理論と実践、観念と行動を全く分離することはできぬ。科学が価値判断を排するのは主観的なものの混入を防ぐためであるが、哲学もまた、価値を問題にするにしても、単に主観的であることは許されない。もちろん、純粋に客観的な立場においては評価はなく、物の意味も理解されないであろう。けれども意味とか目的とか価値とかも、単に主観的なものであり得ず、そしてそれが現象のうちに客観的に現われる限り、価値も科学の対象となるのである。道徳学、芸術学、宗教学等の存在はそのことを示している。従って哲学が価値を問題にするという場合、その取扱いは科学におけるそれとは異り、しかも価値そのものの本質が哲学的な見方を要求しており、更にこれが単に主観的な見方でないということがなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって重要なのである。  それでは、知識、存在、価値等、すべての問題について、科学と哲学とはその見方においていかに相違するのであろうか。科学的な見方のほかに、およそ何故に哲学的な見方が要求されるのであろうか。

科学は物を客観的に、対象的に見てゆく。科学の求めるのは客観的な知識或いは対象的な認識である。しかるに物を知るには知る作用があり、そこに知られたものと知るものとが区別される。認識には作用と対象とがある、対象は客観であり、作用は主観に属している。科学はひたすら客観をそのものとして知ることに努力するのである。尤もっとも、科学も知るもの、知る作用即ち主観或いは主体について研究するといわれるであろう。けれども科学が知るものについて研究する場合、知るものは対象として、客観として捉えられるのであって、そこに更にこれを知るもの、知る作用がなければならぬ。見られた自己はもはや見る自己ではない。主体はいかにしても客観化し得ぬものである。それは対象的存在でなく作用的存在であり、ラシュリエの言葉を借りると、判断の述語としての存在でなく繋辞としての存在である。主体をそのものとしてどこまでも主体的に見てゆくというのは科学のことでなく、そこに哲学がある。科学が客観的な見方に立つに反して、哲学は主体的な見方に立っている。主体的に知るというのは、対象的に知ることでなく、自覚的に知ることである。そこで翻って主体とか自覚とかの意味を考えてみなければならぬ。

主体とは働くものである。知るということにおいて、知られたものに対して知るもの、知る作用が主体のものである。それは意識であり、主体とは意識にほかならぬといわれるであろう。しかしさきに論じたように、知識の主体も行為的である。行為の主体は単なる意識でなく却って存在である。存在といっても、それはもとより客観的なものでなく、客観的にどこまでも捉えることのできぬところがあるから主体といわれるのである。その際、存在が先ずあって、それについて作用が考えられるのではない。かように考えることはすでに客観的な見方に属している。そこではむしろ作用と存在とが一つである、存在があって作用があるというのでなく、作用があって存在があるというのでもない。意識の起原にしても行為の立場から理解され得るのである。主体が環境の抵抗に逢って、これを支配し自由になるに従って、意識は発達する、意識の発達には、環境の刺戟に対する主体の反応の自由が現われ、主体の運動が単に反射的でなく自発的或いは自律的であることが必要な条件である。ベルグソンのいう如く、意識の範囲は生命の自由な活動の範囲と一致している。主体的なものは行為的なものである。主体的立場とは行為の立場にほかならない。そこで我々は行為について一層深く考えてみなければならぬ。

行為は運動である。しかしそれは水が流れるとか風が吹くとかという運動と同じに考えることはできぬ。それらの運動は客観的に捉え得るものであるが、行為は、それをどこまでも客観的に見てゆく限り、行為の意味がなくなってしまう。行為は単に客観的に捉え得ぬ主体的意味をもっている。行為の対象であるもの即ち客体は、私が何を為すにしても、つねに既にそこにある。私が今この手帳を取ろうとする、そのときそれは既にそこにある。かように客体はつねに「既に」という性格を担っている。客体の担うこの過去性は、普通にいう過去と同じでない。この手帳は現にそこにあるのであり、現在そこにあるものをも「既に」そこにあるものとするのが行為の主体的立場である。また未来に属するものも、見られたもの、考えられたもの、知られたもの即ち一般に客体としては、既にそこにあるということができる。このようにして客体はすべて或る根源的な過去性を担い、いわゆる過去現在未来に属する一切を既にそこにあるものとしてこれに対するのが主体である。主体はいかにしても既にそこにあるとはいい得ぬものであり、真の現在である。この現在は、過去現在未来と区別される時間の秩序における現在でなく、それを超えた全く異る秩序のものである。この現在においてあることによって、過去も未来も現在的になる。過去や未来が我々に働きかけるというのも、この現在においてである。それは過去現在未来が同時存在的にそこにおいてある現在である。行為は既にそこにあるといい得るものでなく、既にそこにあるのは為されたものであって為すものではない。行為はつねに現在から、普通にいう現在とは秩序を異にする現在から起るのである。行為が主体的なものであるというのはそのことである。かくして行為は過去をも未来をも現在に媒介する、そこに行為の歴史性があるのであって、我々のすべての行為は歴史的である。

ところで行為が現在から起るというところに行為の超越性が認められるであろう。行為の超越性というのは、それが過去現在未来を超えた全く異る秩序の現在から起ることを意味している。人間の運動は特に行為といわれ、かようなものとして人間は超越的である。人間の主体性はその存在の超越性を離れては考えられない。超越は人間的存在の根拠であり、超越があるによって人間は人間であるのである。超越は先ず人間における客体から主体への超越である。これによって我々は単なる客体でなく主体である。しかるに人間における主体への超越は同時に人間に対する客体の超越の根拠である。我々の環境にあるすべてのものは我々に対して超越的である。言い換えると、それは我々の全く外にあり、我々はそれに対していわば距離の関係に立っている。我々は自己に対してさえ距離の関係に立ち、かようにして自己をも客観的に捉え得る。我々に対して客体が超越的である故に、我々はそれを客観的に認識し得るのである。物に遠いことが却って物を近く捉え得る所以である。客体の超越は、我々が主体として超越的であることによって可能になる。我々における主体への超越は同時に我々に対する客体の超越であり、超越はかように二重であって一つである。人間の存在は客体を全体として超越している故に、存在するものの一切を全体として把握することも可能になる。我々が主体として超越的でなければ行為はなく、また対象が客体として超越的でなければ行為はないであろう。行為は二重の超越によって、しかもそれが一つであるによって、可能になるのである。

さて主体は単なる意識を意味しないが、しかし意識において主体は主体的になるのである。主体の主体性即ち行為の自発性と意識の発達とは伴っている。主体が主体的に表現される所は意識である。行為はもとより客観的に表現される、けれどもそれが主体的に表現される所は意識を措いてないのである。自己意識或いは自覚によって、主体は真に主体的になるのである。デカルトが「私は考える、故に私は在る」といった如く、我々は自己の存在を意識し、意識する自己を意識することができる。尤もっとも自覚はデカルトの考えた如く単に知的な事実であるのではない。「我々は存在し且つ存在することを知る、そしてこの存在と知とを愛する」とアウグスティヌスがいった如く、我々の自覚存在には感情が伴うのがつねである。人間は「考える蘆」であるというパスカルの言葉は、情意的自覚を現わしている。デカルトの「私は考える、故に私は思惟する物もしくは実体である」ということに対し、メーヌ・ドゥ・ビランは、「私は行動する、私は意欲する、即ち私は私において行動を意識する、故に私は原因であることが知られる、故に私は原因もしくは力として在る、即ち現実的に存在する」ということを原理とした。彼はこれを内的感覚の原始的事実と称した。自己意識は主体の自発性の意識である。「意欲は精神の単純な、純粋な、瞬間的な作用である、それにおいて、もしくはそれによって、この知的にして能動的な力は外部に現われ、且つ自己自身に内面的に現われる」、とまたメーヌ・ドゥ・ビランが記しているように、行為は外部に表現されると共に内部に表現される。かように二重の表現を有するということ、単に外に現われるのみでなく同時に自己自身に内面的に現われるということが、主体の特徴である。人間は外的人間であると共に内的人間である。行為は外に経験されるのみでなく内に経験される。経験を外的経験とのみ考えたところに、いわゆる経験論の制限があった。外的感覚のほかに、メーヌ・ドゥ・ビランのいったような内的感覚がある。人間は自覚的存在である。自覚的なものであって真の主体であり、自覚によって真に主体の主体性は成立するのである。

この自覚の意味は一層厳密に考えられねばならぬ。自覚というのは自己が自己を知ること、自己が自己を意識することである。しかしながら自覚の意味は単に自己が自己を意識するということに尽きるのではない。自己は自己を振返って見ることができ、この振返って見る自己を更に振返って見ることができる。かように自己は無限に自己を反省し得るというのは重要な事実であるけれども、もしそれが単に意識の内部において自己が自己に関係付けられることに過ぎないとすれば、それは純粋に内在的なことになってしまう。もしそれが純粋に内在的なことであるとすれば、何故にそれが、少くとも行為にとって、重要な関係をもっているのか、理解し難いであろう。自己が自己を知るという自覚の意味は、自己が自己を超えるということでなければならぬ。自己が自己を超えるというところに自己が自己を知るということもあり得る。自覚の事実は人間存存の超越性によって可能になるのであり、そこに真の主体性が成立するのである。自覚というのは単に自己が自己を知ることでなく、自己が自己を知ることに即して自己の根拠であるものを知ることである。もし自覚が単なる自己意識に過ぎないとすれば、その内容は単に自己であり、またそれはただ意識に関することと考えられ、かようにして自覚を基礎とする哲学は、従来しばしばそうであったように、内在論或いは意識哲学に終ることになる。それは自覚の事実がこれまで主として知識とその主観の問題の見地から見られたことにも関聯している。自覚の事実も行為の立場において捉えられねばならぬ。自覚の内容は自己であると同時に他者であり、そして自覚は単に意識に関わるものでなく、存在に関わるものである。単なる自己反省でなく、自己への反省が同時に他者への関係付けであるというところに、自覚の本質がある。他者とは自己の存在の根拠であるものを指している。伝統的な哲学の考えた如く、現実的存在においてはその存在と存在の根拠とが区別され、自己の存在の根拠が自己の存在に超越的であるということが現実的存在の根本的規定であるとすれば、人間に固有なものといわれる自覚は、自己の存在の根拠の意識であるのでなければならぬ。単なる自己意識でなく、自己意識が同時に根拠の意識であるというところに自覚の本来の意味があり、その根拠の意識によって自己意識も成立するのである。自覚は超越によって可能になるのであって、主体的とは、単に主観的ということでなく、却って自己の存在の根拠を自覚し、これと内面的な関係を含むということである。自己意識としての個人的自覚は人格の認識根拠となるにしても、その存在根拠であることはできぬ。しかも我の存在の根拠であるものは、同時に汝の存在の根拠であることなしに、我の存在の根拠であることもできない、我は汝に対して初めて我であるから。我々は我々の存在の根拠であるものから社会的に限定されてくるのである。かような存在の根拠が最も深い意味における世界にほかならない。主体的立場というのは個人的立場でなく、社会的立場であり、世界的立場を意味している。この世界は客観としての世界ではない。客観としての世界においては、主体である人間はその場所をもたない。見られた自己はその中に入っているにしても、見る自己はそれに対して何処か外にあると考えられねばならぬ。しかしながら、「世界は深い」とニーチェもいった如く、世界は主体である人間を内に包み、これを超えて深いのである。主体がそれにおいてある世界即ち絶対的場所は、どこまでも主体的なものでなければならぬ。それは主体である人間がそれに対しては客体と考えられるような主体である。それは「既に」そこにある世界でなく、却っていわゆる世界がそれにおいてある世界であり、真の現在である。哲学は対象的認識でなくて場所的自覚である。人間は世界から作られる、世界は創造的世界である。創造とは独立なものが作られるということである。人間は作られたものでありながら、独立なものとして、みずから作ってゆく。人間が作るのは、みずからも創造的なものとして、世界が世界を作るのに参加することである。人間は形成的世界の形成的要素である。我々が作るのは、世界が世界を作ることにおいて、そのうちに、作ることである。それ故に我々の行為は、我々の為すものでありながら、我々にとって成るものの意味をもっている。行為は同時に生成の意味をもっている。行為が出来事の意味をもっているのは、これに依るのである。人間の行為は世界における出来事であり、かようなものとして歴史的である。歴史とはもと出来事を意味している。主体的立場は歴史的立場であり、世界史的立場でなければならぬ。

かようにして哲学が主体的立場に立つというのは、要するに、現実の立場に立つということである。真に現実といわるべきものは歴史的現実である。人間は歴史的世界における歴史的物にほかならない。我々の一切の行為は、経済的行為の如きものであろうと、芸術的行為の如きものであろうと、或いはまた科学的研究の行為の如きものであろうと、すべて歴史的世界においてあるのである。主体的立場は行為の立場であるといっても、主知主義を排して主意主義を取るというが如きことを意味するのではない。行為の問題は、主観主義の哲学において考えられる如く、単に意志の問題ではない。いかなる物であろうと、物を作るということが、行為の根本的概念である。人間のあらゆる行為は制作の意味をもっている。それはすべて技術的なものであり、知識的でなければならぬ。主体的立場は形成的人間の立場であるが、人間は歴史的世界において形成されて形成するのである。歴史とは出来事であり、それは行為が同時に生成であることを意味している。従って行為の立場といっても、主観主義的な、いはゆる行動主義の如きものではない。我々の行為はつねに歴史的に限定されている、言い換えると、それは主観的・客観的なものである。主体的立場というのは単なる主体の立場でなく、却って主体を超えた主体の立場である。人間は「超越的人間」である、超越によって人間は人間であり、人間の一切の作用は可能になる。けれどもそれはいわゆる超越的意識或いは先験的意識と混同さるべきでなく、人間はその全体の存在において超越的であるのである。しかも超越的とは、世界の外にあるということでなく、却って「世界」に関係付けられているということである。そして主体と客体とが抽象的に対立するのでないように、超越は同時に内在であり、内在的超越であると共に超越的内在である。かようにしてまた、哲学は対象的認識でなく場所的自覚であるといっても、その主体的な見方は客観的な見方に媒介され、これを内に含むのでなければならぬ。場所的自覚とは現実の中で現実を自覚することである。

ところで科学の主観もすでに行為的であった。科学も行為の立場を予想するにしても、それを主体的に自覚してゆくということは、科学のことではない。科学は世界をどこまでも客観的に見てゆくのである。その主観が行為的であるのも、客観的知識に近づくためであった。科学の与えるのは世界像であって世界観でなく、しかるに哲学の求めるのは世界観である。世界像は客観的な見方において形作られるものであるに反して、世界観は主体的な見方において形作られるのである。前者は世界の対象的把握であり、後者は世界の場所的自覚である。世界観は科学よりもむしろ常識のものである。常識は行為的知識として、論理的反省を経ていないにしても、或る世界観をもっている。日常の生活において我々は多くの場合、常識的世界観によって生活している。格言や俚諺の如きものは、かような常識的世界観を言い表わしている。世界観は世界の主体的な自覚である故に、そこには情意的な見方の含まれるのがつねである。哲学において知るものは人間の全体的存在である、哲学は「全体的人間」の立場に立っている。自覚はあらゆる作用がそれによって可能になる超越と一つのものとして、意識の作用のうちの一の作用に過ぎぬものでなく、むしろ「作用の作用」として、そこでは悟性も感情も意志も結び付くことができる。世界観は我々の知的要求と共に我々の情意的要求を満足させるものでなければならぬ。常識が哲学に求めるのはかような世界観である。そして常識が哲学に対して知識や理論よりも哲学者とか賢者とかという人間理想を求めるということは、哲学を行為的知識として理解しているからである。哲学は生の立場に立つことにおいて常識と同じである。しかしながら哲学はまた学でなければならぬ、それは飽くまでも論理的でなければならぬ。哲学は学の要求において科学と同じであり、科学の媒介が必要である。科学の客観的な見方は哲学の主体的な見方に対立するが、かように自己に対立するものを自己の否定の契機として自己に媒介し、これを自己のうちに生かすことによって、哲学は真に具体的な知識になり得るのである。哲学の仕事は、新カント派が考えたような意味での科学批判、即ち単に科学の論理的基礎を明かにするという形式的な仕事に尽きるのでなく、科学的世界像に媒介された世界観を樹てることを究極の目標としている。尤もっとも、科学の哲学への媒介は科学批判を通じて行われねばならぬであろう。批判というのは、その前提であるものを反省してそれに基礎をおくこと、いわゆる基礎付けであり、基底付けである。そして科学の基礎付けも基底としての世界からなされ得るのである。知識の問題を存在の問題から分離することはできぬ。学的であるべき哲学は論理的でなければならぬが、論理といっても、抽象的に形式的に考えられるものでなく、論理は現実の構造のうちにあるのである。最も具体的な現実は歴史的現実である。同じ歴史が繰返すと考えるとき、そこに自然があり、自然とはいわば習慣的になった歴史である。哲学の論理は根本において歴史的現実の論理でなければならぬ。哲学はどこまでも現実の中になければならず、その点において常識を否定する哲学は却って常識と同じ立場に立っている。哲学は科学の立場と常識の立場とを自己に媒介することによって学と生との統一である。

八 参照

2021年10月27日制作

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タッチデバイスではメニューをスワイプすると全メニューが参照できます。PCではマウスを矢印に hover させます。

CODEPEN:Multi-device scrolling menuより引用
青空文庫 三木清「哲学入門」より引用