人間と環境
人間と環境
ところで現実というとき、先ず考えられるのは我々の生活である。この現実を顧みて知られることは、我々が世界の中で生活しているということである。我々がそこにいて、そこで働くこの世界は、環境と呼ばれている。環境というと普通に先ず自然が考えられるが、自然のみでなく社会もまた我々の環境である。
むしろ我々がそこにある世界は何よりも世の中或いは世間である。「世界」という言葉はもと自然的対象界でなく人間の世界を意味した。環境は我々に近いものであるとすれば、人間にとって人間よりも近いものはなく、環境は我々に遠いものであるとすれば、人間にとって人間よりも遠いものはない。
人間と環境とは、人間は環境から働きかけられ逆に人間が環境に働きかけるという関係に立っている。我々は我々の住む土地、そこに分布された動植物、太陽、水、空気等から絶えず影響される。人間は環境から作られるのである。他方我々はその土地を耕し、その植物を栽培し、動物を飼育し、或いは河に堤防を築き、山にトンネルを通ずる。人間が環境を作るのである。
本能と知性
人間は環境に適応することによって生きている。適応とは対立するものの間における均衡の関係を意味している。その適応の最も単純な仕方は本能である。動物は本能に生きるといわれるが、人間も多くの場合本能によって環境に適応しているのである。本能は身体的なものであり、身体の構造と結び付いている。
同じ種の昆虫においても、幼虫、蛹、蛾と、身体の形が変るに従って、その本能も変るのがつねである。かように本能は身体の構造或いは形と結び付いているが、身体の構造は、近代の進化論が説く如く、生活する主体の環境に対する適応の結果として作られたものである。
生物の形はただ偶然に出来たものでなく、その棲息する環境との関係から限定されたものである。水中に棲む魚は鰭を、空中に棲む鳥は翅をもっている。それらの形はそれらの生物の本能を表現すると共に、生活する環境を表現している。人間の身体の構造も同じように考えることができる。
経験
環境について知識を得る日常の仕方は経験である。我々は先ず経験によって知るのであって、経験は知識の重要な源泉である。けれども経験を単に知識の問題と見ることは種々の誤解に導き易く、それによっては経験的知識の本性も完全に理解されないであろう。
経験を唯一の基礎とすると称する経験論の哲学が、経験を心理的なもの、主観的なものと考えたのも、それに関聯している。知識の立場においては、経験の主体即ち知るものは心或いは意識であって、経験はそこに生じそこに現われるものと考えられるであろう。しかしながら現実においては、経験は何よりも主体と環境との行為的交渉として現われる。
経験するとは自己が世界において物に出会うことであり、世界における一つの出来事である。経験は元来行為的なものである、経験によって知るというのも行為的に知ることである。経験するとは自己が環境から働きかけられることであって、経験において自己は受動的であるといわれるであろう。経験論の哲学が感覚とか印象とかを基礎とするのも、そのためである。
経験
環境について知識を得る日常の仕方は経験である。我々は先ず経験によって知るのであって、経験は知識の重要な源泉である。けれども経験を単に知識の問題と見ることは種々の誤解に導き易く、それによっては経験的知識の本性も完全に理解されないであろう。
経験を唯一の基礎とすると称する経験論の哲学が、経験を心理的なもの、主観的なものと考えたのも、それに関聯している。知識の立場においては、経験の主体即ち知るものは心或いは意識であって、経験はそこに生じそこに現われるものと考えられるであろう。しかしながら現実においては、経験は何よりも主体と環境との行為的交渉として現われる。
経験するとは自己が世界において物に出会うことであり、世界における一つの出来事である。経験は元来行為的なものである、経験によって知るというのも行為的に知ることである。経験するとは自己が環境から働きかけられることであって、経験において自己は受動的であるといわれるであろう。
常識
経験の右の如き性質から、社会的に考えると、常識というものが出来てくる。常識は社会的経験の集積であって、我々の行為の多くは常識に従って行われている。常識は先ず行為的知識である。常識は実際的といわれるが、実際的とは経験的・行為的ということである。
行為は環境における行為として技術的であり、常識は技術的知識であるのがつねである。実際的ということはまた日常的ということを意味し、常識は平生の生活に関わり、日常的ということがその特徴をなしている。常識は日常的・行為的知識である。そして次に常識は社会的な知識である。
常識は個人的経験の結果でなく、社会的経験の結果である。個人にとってはそれはむしろ社会から与えられたものとして受取らるべきものである。この場合社会というのは何等か閉じたものの性質をもっているのがつねである。それは或る家族、或る部落、或る国というが如き、ベルグソンのいわゆる閉じた社会であって、人類というが如き開いた社会ではない。ベルグソンに依ると閉じた社会は諸習慣の体系と看做みなされ得るものであるが、常識はかような社会において習慣的に行われる知識であり、常識そのものがまたかような社会の紐帯となっている。常識は閉じた社会に属するものである故に、一つの社会における常識はしばしば他の社会における常識と異っている。
科学
常識はそれ自身の効用をもっている。常識なしには社会生活は不可能である。常識に対して批判的精神が現われるが、それと共に人間は不幸になり、再び常識が作られ、これによって人間は生活するようになる。けれども常識の長所は同時にその制限である。そこに科学が常識を超えるものとして要求されるのである。
先ず常識が実定的であるに対して科学は批判的である。実定的な常識が固定的な傾向をもっているに反して、批判的な科学は進取的な傾向をもっている。しかし科学が批判的であるということは更に積極的な意味において理解されねばならぬ。常識はその理由を問うことなく、自明のものとして通用する、それは単なる断言であって探求ではない。
常識に頼ることは安定を求めることである。それには懐疑がないが、科学には絶えず新たな懐疑がある。懐疑があって進歩があるのである。探求というのは問を徹底することであり、特に理由を問うことである。単に「斯くある」ということを知るのみでなく、「何故に斯くあるか」ということを知るところに真の知識がある。物を批判的に知るというのはその理由を知ることでなければならぬ。科学は理由或いは原因の知識である。