幅を指定する
PCで表示するレイアウトは body に以下のようなグリッドレイアウトを指定する。
@media (orientation: landscape) and (min-width:1024px) {
body {
display: grid;
grid-template-columns: 250px auto; /* 列の幅 */
grid-template-rows: minmax(min-content, max-content) auto minmax(min-content, max-content); /* 行の高さ */
grid-template-areas:
"nav nav" /* 1行目 */
"aside main" /* 2行目 */
"footer footer"; /* 3行目 */
grid-row-gap: 10px;/* 行と行の間の余白 */
grid-column-gap: 10px;/* 列と列の間の余白 */
/* ショートハンドだと
grid-gap: 10px 10px ;
*/
width: 60%;
min-height: 100vh;
}
列の幅は、grid-template-columns: で指定する。<aside> は固定幅で250px、<main> の本文が入る部分は auto で指定する。
HTML の <aside> 要素は、文書のメインコンテンツと間接的な関係しか持っていない文書の部分を表現する。サイドバーやコールアウトボックスなどを表現するためによく使われる。
行の高さを指定する
行の高さは、grid-template-rows: で指定する。
<nav> と <footer> は内在的な文字の幅と高さに依存する。<main> は auto で指定する。
minmax() は CSS の関数で、寸法の範囲を min 以上、 max 以下で定義する。 CSS グリッドで使用される。
min-content は大きさのキーワードで、コンテンツの内在的な最小幅を表す。テキストコンテンツの場合は、コンテンツがすべてのソフトラッピングの機会を使用した場合に、最も長い単語と同じくらい小さくなることを意味する。
max-content は大きさのキーワードで、コンテンツの内在的な最大幅や高さを表している。テキストコンテンツの場合は、オーバーフローが発生しても、コンテンツはまったく折り返されないことを意味する。
grid-template-areas
grid-template-areas は CSS のプロパティで、グリッド内でセルを確立し、名前を割り当てることにより、名前付きの グリッド領域を指定する。
min-height は CSS のプロパティで、要素の最小高を設定する。これは height プロパティの使用値が、min-height で指定した値を下回ることを防ぐ。
以下ダミーテキスト……
哲学はしばしば無前提の学と称せられている。しかるにそれが現実から出立するというとき、現実というものが前提されるといわれるであろう。けれど哲学にしても空無から始めることはできぬ。いわゆる無前提とは前提がないということでなく、最も必然的な前提に立つということでなければならぬ。現実は任意の前提でなく、いかにしても逃れ得ない前提である。現実から遊離した哲学も、その遊離することにおいてなお現実に制約されているのである。現実に出発点を取るということは、哲学の一つの立場をあらかじめ取るということではない。それを立場というならば、それは哲学における唯一の立場である。対象としてでなく、基底として、場所として、現実はかような意味をもっている。しかしながら、かように必然的なものが単に必然的なものに止まる限り哲学はないであろう。哲学は基底の危機から生れるのであって、そのとき必然的なものの必然性は揺り動かされ、ひとつの可能性に過ぎなくなってくる。最も必然的と思われているものが単に可能的なものではないかと疑われてくるところに、必然性の可能性へのこの転換のうちに、哲学的意識は現われるのである。かようにして自己の前提であるものをみずから意識し反省してゆくことが、哲学の無前提性といわれるものの意味でなければならぬ。ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。その際、必然性は可能性の否定的媒介を通じて真の現実性に達するのであって、哲学的に自覚された現実性は必然性と可能性との統一である。
哲学的探求の初めにおいて現実はもとより全く知られていないのではない。全く知られていないものは問題になることもできぬ、問題になるというには既に何等か知られているのでなければならぬ。しかしそこにはまた何か知られていないものがあるのでなければならぬ、全く知られているものには問題はない筈である。かようにして知っていると共に知っていないところから探求は始まるのである。哲学者は全知者と無知者との中間者である、とプラトンはいった。全く知らない者は哲学しないであろう、全く知っている者も哲学しないであろう、哲学は無知と全知との中間であり、無知から知への運動である。不完全性から完全性へのこの運動は愛と呼ばれた。哲学は、それにあたるギリシア語の「フィロソフィア」という言葉が意味するように、知識の愛である。それは知識の所有であるよりも所有への行程であり、従って哲学することを措いて哲學はないのである。
哲学の以前、我々は常識において、また科学において、現実を知っている。しかしながら、哲学は常識の単なる延長でもなければ、科学の単なる拡張でもない。哲学的探求は知っていると共に知っていないところから始まるということは、もと単に、知ってい知っていないのは事物の部分であって、まだ知っていない部分について知り、その知識をすでに知っている部分の知識に附け加えることで問題がなくなるというような関係にあるのでなく、持っている知識が矛盾に陥ることによって否定され、全く知っていないといわれるような関係にあるのである。現実の中で、常識が常識としては行詰り、科学も科学としては行詰るところから哲学は始まる。哲学は常識とも科学とも立場を異にし、それらが一旦否定に会うのでなければ哲学は出てこない。ソクラテスの活動が模範的に示している如く、そこには知の無知への転換がなければならぬ。無知と知との中間といわれる哲学の道は直線的でなくて否定の断絶に媒介されたものであり、知の無知への転換を経た知への道である。それ故に哲学は懐疑から発足するのがつねである。しかしながら哲学は常識や科学を否定するに止まるのではない、それらとただ単に対立する限り哲学は抽象的である。それが常識や科学を否定することは却ってそれらに媒介されることであり、それらを新たに自己のうちに生かすことによって、哲学は真に現実的になり得るのである。