哲学とは、人生、世界、知識、道徳といった物事の根本的な原理や本質について、「なぜ?」と問い続け、論理的に考察する学問・営みです。 「哲学」という言葉は、英語の「philosophy」(フィロソフィー)の訳語で、古代ギリシャ語の「フィロソフィア」に由来します。これは「知恵を愛する」という意味を持ち、物事の真理や本質を見極めようとする姿勢そのものを指しています。 問い続ける姿勢: 科学のように一つの決まった答えがあるとは限らないテーマでも、当たり前だと思われている前提に疑問を投げかけ、自分なりの考えを組み立てて深めていくことを重視します。
哲学が何であるかは、誰もすでに何等か知っている。もし全く知らないならば、ひとは哲学を求めることもしないであろう。或る意味においてすべての人間は哲学者である。言い換えると、哲学は現実の中から生れる。そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。
哲学が現実から出立するということは、何か現実というものを彼方に置いて、それに就ついて研究するということではない。現実は我々に対してあるというよりも、その中に我々があるのである。我々はそこに生れ、そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる、そこが現実である。我々に対してあるものは哲学の言葉で対象と呼ばれている。現実は対象であるよりもむしろ我々がそこに立っている足場であり、基底である。或いは一層正確にいうと、現実が対象としてでなく基底として問題になってくるというのが哲学に固有なことである。科学は現実を対象的に考察する。しかるに現実が足下から揺ぎ出すのを覚えるとき、基底の危機というものから哲学は生れてくる。哲学は現実に就ついて考えるのでなく、現実の中から考えるのである。現実は我々がそこにおいてある場所であり、我々自身、現実の中のひとつの現実にほかならぬ。対象として考える場合、現実は哲学の唯一の出発点であり得ないにしても、場所として考える場合、現実以外に哲学の出発点はないのである。
ところで現実というとき、先ず考えられるのは我々の生活である。この現実を顧みて知られることは、我々が世界の中で生活しているということである。我々がそこにいて、そこで働くこの世界は、環境と呼ばれている。環境というと普通に先ず自然が考えられるが、自然のみでなく社会もまた我々の環境である。むしろ我々がそこにある世界は何よりも世の中或いは世間である。「世界」という言葉はもと自然的対象界でなく人間の世界を意味した。環境は我々に近いものであるとすれば、人間にとって人間よりも近いものはなく、環境は我々に遠いものであるとすれば、人間にとって人間よりも遠いものはない。
人間と環境とは、人間は環境から働きかけられ逆に人間が環境に働きかけるという関係に立っている。我々は我々の住む土地、そこに分布された動植物、太陽、水、空気等から絶えず影響される。人間は環境から作られるのである。他方我々はその土地を耕し、その植物を栽培し、動物を飼育し、或いは河に堤防を築き、山にトンネルを通ずる。人間が環境を作るのである。即ち人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている。この関係は人間と自然との間にばかりでなく、人間と社会との間にも同様に存在している。社会は我々に働きかけて我々を変化すると共に我々は社会に働きかけて社会を変化する。人間は社会から作られ逆に人間が社会を作るのである。
人間は環境に適応することによって生きている。適応とは対立するものの間における均衡の関係を意味している。その適応の最も単純な仕方は本能である。動物は本能に生きるといわれるが、人間も多くの場合本能によって環境に適応しているのである。本能は身体的なものであり、身体の構造と結び付いている。同じ種の昆虫においても、幼虫、蛹、蛾と、身体の形が変るに従って、その本能も変るのがつねである。かように本能は身体の構造或いは形と結び付いているが、身体の構造は、近代の進化論が説く如く、生活する主体の環境に対する適応の結果として作られたものである。生物の形はただ偶然に出来たものでなく、その棲息する環境との関係から限定されたものである。水中に棲む魚は鰭を、空中に棲む鳥は翅をもっている。それらの形はそれらの生物の本能を表現すると共に、生活する環境を表現している。人間の身体の構造も同じように考えることができる。適応といっても単に受動的なものでない、ただ消極的に環境に適応してゆく場合、生命は萎縮してしまうのほかない。人間の環境に対する適応は作業的に、行為的に行われるのであって、身体の諸部分はそのための道具の性質をもっている。それらは器官と呼ばれ、器官とは道具のことである。身体は客観的なものであると共に単なる物体とは異る主体的なものであり、主観的・客観的なものとして道具と考えられるのである。
環境について知識を得る日常の仕方は経験である。我々は先ず経験によって知るのであって、経験は知識の重要な源泉である。けれども経験を単に知識の問題と見ることは種々の誤解に導き易く、それによっては経験的知識の本性も完全に理解されないであろう。経験を唯一の基礎とすると称する経験論の哲学が、経験を心理的なもの、主観的なものと考えたのも、それに関聯している。知識の立場においては、経験の主体即ち知るものは心或いは意識であって、経験はそこに生じそこに現われるものと考えられるであろう。しかしながら現実においては、経験は何よりも主体と環境との行為的交渉として現われる。経験するとは自己が世界において物に出会うことであり、世界における一つの出来事である。経験は元来行為的なものである、経験によって知るというのも行為的に知ることである。経験するとは自己が環境から働きかけられることであって、経験において自己は受動的であるといわれるであろう。経験論の哲学が感覚とか印象とかを基礎とするのも、そのためである。かように受動的状態を重んずるのは、対象を自己に対して働かさせようとするものであって、経験論の動機も実証的或いは客観的であろうとするところにある。経験は客観的なものを意味し、自己が実際に出会うもの、客観的に与えられたものが経験である。しかし他方経験はつねに主体に関係付けて理解される、経験は経験するものの経験であり、経験する主体を離れて経験はない。経験論が経験を主観的なものと考えるに至ったのも、それに依るのである。ただ経験論は、この主体を単なる意識と考えることによって経験を心理的なものとしたばかりでなく、更にその意識を単に受動的なものと考えた。しかも実は、単に受動的であっては客観性に達することも不可能であったのである。経験は主体と環境との関係として行為の立場から捉えられねばならぬ。感覚も身体的な行為的自己の尖端として重要性をもっているのであり、感覚にも能動的なところがある。尤もっとも、行為といっても単に能動的であるのではなく、環境の刺戟に対する反応として環境から規定されている。けれども反応することは我々の能動性に属している。即ち経験は受動性であると同時に能動性である。我々の行為はただ或る意味においてのみ環境の刺戟によって惹き起されるに過ぎぬ、なぜなら我々の活動そのものが我々の活動を惹き起す環境を作り出すことを助けるのであるから。刺戟によって生ずる反応は同時に刺戟を変化する。主体は単なる環境に対して反応するのでなく、むしろ環境プラス主体に対して反応するのである。客観的状況といわれるものも実は単に客観的でなく、同時に主観的である。行為もまた単に主観的なものでなく、同時に客観的なものであり、環境の函数にほかならぬ。
経験の右の如き性質から、社会的に考えると、常識というものが出来てくる。常識は社会的経験の集積であって、我々の行為の多くは常識に従って行われている。常識は先ず行為的知識である。常識は実際的といわれるが、実際的とは経験的・行為的ということである。行為は環境における行為として技術的であり、常識は技術的知識であるのがつねである。実際的ということはまた日常的ということを意味し、常識は平生の生活に関わり、日常的ということがその特徴をなしている。常識は日常的・行為的知識である。そして次に常識は社会的な知識である。常識は個人的経験の結果でなく、社会的経験の結果である。個人にとってはそれはむしろ社会から与えられたものとして受取らるべきものである。この場合社会というのは何等か閉じたものの性質をもっているのがつねである。それは或る家族、或る部落、或る国というが如き、ベルグソンのいわゆる閉じた社会であって、人類というが如き開いた社会ではない。ベルグソンに依ると閉じた社会は諸習慣の体系と看做みなされ得るものであるが、常識はかような社会において習慣的に行われる知識であり、常識そのものがまたかような社会の紐帯となっている。常識は閉じた社会に属するものである故に、一つの社会における常識はしばしば他の社会における常識と異っている。常識の通用性はそれぞれの社会に局限されているのがつねである。「ピレネーのこちらでは真理であるものも、あちらでは誤謬である」、とパスカルはいった。常識の通用性は局限されているが、しかしその社会に属する限り誰もそれをもつことを要求されている。第三に常識は何か直接的に自明なものと思われている。それがいかなる道筋を経て出来てきたものであるか、その根拠がいかなるものであるかを反省することなく、或る自明なものとして社会的に認められているのが常識のつねである。即ち常識は実定的なものである。常識のこの性質は、常識と科学的知識とを比較してみればわかる。科学的知識の性質は、それを問に対する答と考えると明瞭になる。問に対する答は、「然り」か「否」である、肯定か否定である。肯定は否定に対する肯定であり、否定は肯定に対する否定である。その肯定は否定によって媒介されたものでなければならぬ。科学的知識はつねに問に生かされ、従って探求を本質とするものである。しかるに常識は問のない然りであり、否定に対立した肯定でなくて単純な肯定である。常識は探求でなく、むしろ或る信仰である。常識は実定的なものであり、或る慣習的なものとして直接的な知識である。そして社会における慣習が法的な強制的な性質をもっているように、常識もその社会に属する者に対して法的な強制的な性質をもっている。それは常識が特に行為的知識であることと関係しており、常識は個人に対する一つの社会的統制力として働く。非常識であることは、無知を意味するのみでなく、社会的に悪とも考えられるのである。更に常識は有機的な知識である。それは決してばらばらなものでなく、それ自身の仕方で組織されたそれ自身の斉合性をもっている。一定の社会において一つの常識は他の常識と衝突することなく、もし衝突するものであれば常識とはいわれない。常識的な行為はその社会の全体との関係において不都合の起らないのが普通である。一つの常識はつねに他の常識と結び付き、これを予想している。常識のかような斉合性は科学の求める論理的斉合性とは性質を異にし、その際その常識の根拠、一つの常識と他の常識との論理的関係は反省されていない。常識の斉合性は慣習のもっている斉合性と同じ性質のものである。それは常識が社会の有機的な関係と結び付き、それに相応する有機的な知識であることに基いている。社会の有機的な関係というのは、社会のうちに均衡が保たれている状態であって、この場合個人と社会との間には適応が持続的に存在している。その均衡から習慣が生れ、それに従って常識が作られる。社会のうちに均衡が存在する限り常識は通用する、また社会は現存する均衡を維持するために人々が常識的であることを強制するのである。
常識はそれ自身の効用をもっている。常識なしには社会生活は不可能である。常識に対して批判的精神が現われるが、それと共に人間は不幸になり、再び常識が作られ、これによって人間は生活するようになる。けれども常識の長所は同時にその制限である。そこに科学が常識を超えるものとして要求されるのである。 先ず常識が実定的であるに対して科学は批判的である。実定的な常識が固定的な傾向をもっているに反して、批判的な科学は進取的な傾向をもっている。しかし科学が批判的であるということは更に積極的な意味において理解されねばならぬ。常識はその理由を問うことなく、自明のものとして通用する、それは単なる断言であって探求ではない。常識に頼ることは安定を求めることである。それには懐疑がないが、科学には絶えず新たな懐疑がある。懐疑があって進歩があるのである。探求というのは問を徹底することであり、特に理由を問うことである。単に「斯くある」ということを知るのみでなく、「何故に斯くあるか」ということを知るところに真の知識がある。物を批判的に知るというのはその理由を知ることでなければならぬ。科学は理由或いは原因の知識である。